「本当はどうしたいの?」
そう聞かれたとき
うまく答えられなくて困ってしまうことはありませんか。
何が食べたいのか。
どこに行きたいのか。
何をしたいのか。
そう聞かれても
すぐに言葉が出てこない。
嫌なわけではない。
でも、はっきり「これ」とも言えない。
自分のことなのに、自分の気持ちがどこにあるのか見えないような感じがする。
もしそんな感覚があったとしても
それはおかしなことではないのかもしれません。
私は、ずいぶん長い間そうでした。
「私はこうしたい」と言うことに慣れていなかった
振り返ってみると、私は
「あなたはどうしたいの?」
という言葉が昔からあまり得意ではありませんでした。
いろいろな場面で聞かれてきたはずなのに
「私はこうしたい」とスムーズに言葉が出てきた記憶がほとんどありません。
何を食べたいのか。
どこに行きたいのか。
何をしたいのか。
誰かが「これが食べたい」と言ったら、それでいい。
誰かが「ここに行きたい」と言ったら、それに合わせる。
その場が楽しそうなら、それで十分な気がしていました。
自分の考えや意見で選ぶというより
周りに合わせて、流れに乗るように生きてきたのだと思います。
でもそれは
ただ優柔不断だったから、という単純な話ではありませんでした。
私は幼いころから
自分の意見を言わないほうがうまくいくことを
どこかで知っていたのだと思います。
自分の気持ちを出すより
周りに合わせたほうが波風が立たない。
私が我慢すれば、その場はおさまりやすい。
そんな感覚が、ずっと自分の中にありました。
だから大人になってからも
自分の意見や考えを主張することは
私にとってとても勇気のいることでした。
自分の気持ちを見にいかないまま過ごしていた
そうやって過ごしているうちに
私はだんだん
自分は何をしたいのか
を考えなくなっていったように思います。
最初から何も感じていなかったわけではありません。
きっと、そのときどきで小さな気持ちはあったはずです。
でも、それを見にいく前に
周りの気持ちや、その場の空気のほうを優先してきた。
自分の意見を出しても仕方がない。
言わないほうがうまくいく。
合わせたほうが楽。
そんなふうに生きていると
少しずつ「私はどうしたい?」という問いそのものが
自分の中で遠くなっていくのかもしれません。
だから、ふいに
「何がいい?」
「どうしたい?」
と聞かれたときに、戸惑ってしまう。
それは、自分勝手だからでも
考えがないからでもなくて
自分の気持ちを感じる習慣が育ちにくかっただけ
なのかもしれません。
一人でランチに行こうとした日のこと
ある日、一人でランチに行こうと思ったことがありました。
前日から
明日はランチに行こうかな、と少し楽しみにしていました。
何を食べようかな。
どのお店に行こうかな。
そんなふうに考える時間は、ちゃんとありました。
でも、いざその日になって家を出て
「私、何が食べたいんだろう」
と思ったとき、急にわからなくなってしまったんです。
パスタにしようか。
麺類にしようか。
それとも和食にしようか。
歩きながら、思いつくメニューをいろいろ考えてみました。
でも、どれもしっくりきませんでした。
嫌いなわけではない。
でも、これが食べたいという感じがない。
どれも少し違う気がする。
そして結局、自分は何が食べたいのかがわからない
というところで止まってしまいました。
しばらく歩きながら考えていたけれど
だんだん「私、何してるんだろう」
という気持ちになっていきました。
なんで食べたいものもわからないんだろう。
自分の食べたいものもわからないのか。
そんなふうに思いながら、私は家に戻りました。
そして結局
冷蔵庫に残っていた常備菜と梅干しでご飯を食べました。
そのとき、ほっとした気持ちもありました。
いつも食べ慣れているものだったから、安心したのかもしれません。
でも同時に
本当はお店でおいしいものを食べたかった気持ちも、ちゃんとありました。
だから余計に少しさみしかったんです。
自分の食べたいものも、わからないんだ。
あの日の私は
食べたいものが決められなかったこと以上に
自分の気持ちが自分で見えなくなっていたことに
静かに悲しくなったのだと思います。
自分の気持ちがわからないのは、鈍いからではない
自分の気持ちがわからないと
「私は鈍いのかな」
「自分のことなのに、どうしてわからないんだろう」
と思ってしまうことがあります。
でも私は
それは鈍いからではないのだと思っています。
気づかないまま頑張ることに慣れてきただけなのかもしれない。
ずっと我慢することが当たり前だった人。
自分の意見を言わないほうがうまくいく環境の中で生きてきた人。
人の機嫌やその場の空気を優先することが自然になっていた人。
そういう人は
自分の気持ちより先に外を見ることに慣れています。
だから
本当は何を感じているのか。
本当はどうしたいのか。
そういうことが見えにくくなっていても、無理はないのだと思います。
それは欠けているのではなく
そうやって生きるしかなかった時間の名残
なのかもしれません。
いきなり「どうしたい?」に答えなくていい
自分の気持ちがわからないとき
すぐに「本当はどうしたい?」に答えようとすると
余計に苦しくなることがあります。
答えなきゃと思うほど、わからなくなる。
そんなこともあります。
だから私は
最初から大きな答えを出そうとしなくていいと思っています。
たとえば、こんなふうに
もっと小さく聞いてみる。
私は今、心地いい?
それとも、少し無理してる?
あるいは
これは本当に私の気持ち?
それとも、そうしたほうがいいと思っているだけ?
そのくらいの小さな問いのほうが
自分の気持ちに戻りやすいことがあります。
最初からはっきりした希望が出てこなくてもいい。
「これがしたい」と言えなくてもいい。
でも
少し無理してるかもしれない。
本当はあまり気が進まないのかもしれない。
そういう小さな感覚に気づけるようになるだけでも、
十分に大きな一歩なのだと思います。
わからなくなっていたことに気づくことからでいい
自分の気持ちがわからないとき
無理に前向きにならなくてもいいし
急に自分を大切にしようとしなくてもいい。
まずは
私は、自分の気持ちがわからなくなっていたのかもしれない。
そう気づけることからでいいのだと思います。
その気づきは、地味なようでいて
人生を整え直す最初の大事な一歩です。
なぜなら
見えなくなっていたものに、少し光が当たりはじめるからです。
自分の気持ちがわからないのは、おかしなことじゃない。
それはきっと、今までの生き方の中で身についたもの。
そう思えるだけでも
自分を責める力は少しやわらぎます。
そしてそこから
少しずつ自分の感情に気づけるようになっていくのだと思います。
おわりに
自分の気持ちがわからないことは
恥ずかしいことでも、足りないことでもないのかもしれません。
それだけ、周りを優先して
その場をうまく保とうとして
頑張って生きてきたのだと思います。
でもこれからは
少しずつでも
「私はどう感じている?」
「私は今、心地いい?」
と、自分に戻る時間を持ってもいい。
人生を整えることは
何か大きなことを始めることではなく
見えにくくなっていた自分の気持ちに
少しずつ気づいていくことから始まるのかもしれません。
最後に
noteに「本当はどうしたいの?」と聞かれると困ってしまう
という感覚について、私自身の体験も交えて書きました。

ブログよりもう少し感情の近くで綴っているので、
同じように、自分の気持ちが見えにくくなっている方に読んでもらえたらうれしいです。
自分の気持ちを少し出しただけなのに、あとから苦しくなってしまうことについては、noteに書きました。

自分の気持ちを後回しにしないことは、いきなり大きく変わることではなく、小さな選び方から始められるのかもしれません。noteにそのことを書きました。

また4月30日には、
自分を責めることが当たり前になっていた人が
少しずつ自分の感情に気づき
自分を後回しにしない人生へ整え直していくための視点を
ひとつのnoteにまとめてお届けする予定です。
なるみ


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